raison d'etre

―プロローグー

 最初に自分の中で芽生えたものは『カエリタイ』という意識だった。創られて初めて『視た』ものは、高潔な意思に輝く紫暗の瞳。
 一瞬で魅せられた。自分も、その瞳にしようと思った。
「おまえの名はゼロス。――獣神官≪プリ―スト≫ゼロスだ」
 威厳に満ちた凛と響く声で与えられたその名の意味を、一瞬で悟り全てを理解した。
 自分はこの方の所有物≪もの≫だ。この意思にしてこの魔力≪ちから≫、自分を構成するすべてが余すところなくこの方のもの。主の目となり手足となり、あらゆる命(めい)を遂行することこそ我が喜び、我が宿命。すべてを無に帰すその時まで、この厳然たる事実は変わらない。たとえ自分の身に何が起ころうとも、この意思は決して変わることはない。
「よろしくお願いいたします。――我が王、獣王≪グレータービースト≫ゼラス=メタリオム様」
 跪き、頭≪こうべ≫を垂れ、その御手に限りなき忠誠を誓う。
「我とともに滅びの道を、そして――己の信じる道を歩むがいい。ゼロス」
 その御言葉こそ、自分を織り成す唯一無二の、存在理由≪レゾンデートル≫。

     1

「待って!……お願い、私も連れて行って!」
 夜のしじまに、女の叫びがこだました。鬱蒼とした森をひた走り、はためく巫女服の残像が白い尾のように浮かび上がる。肩で息を切り、自慢の黒髪が振り乱れることも構わず、女は立ち止まる素振りのない男をひたすら追いかけ――倒れこむようにその腕にしがみついた。
 女よりも頭二つ分背のある男は、自分の腕にすがりつき滔々と涙している女を見下ろし、うんざりするように息をひとつこぼした。
 女は二度と離れまいとさらに力をこめ、自身の豊満な胸に男の腕を埋める。
「……そんなことをされても困るのですが」
 腕に押し付けられた柔らかな感触に喜悦することもなく、言葉通りに困惑する様子もない。
 シミひとつない白磁のように滑らかな肌。端正な顔に張り付いた形のいい唇を少し開き、淡々とした口調で男は呟いた。
「私はあなたがいなくては駄目なの。だからこそ、あなたのために禁を犯したのよ」
「僕はそんなこと頼んでいませんよ。すべてはあなたが勝手にしたことでしょう?」
 いい加減嫌気がさしたのか、男は腕にしがみつく女を、服についたごみを払うように無造作に引き剥がした。中肉中背の腕力とは思えない力で振り払われ、女はたまらずその場に倒れこむ。
「そんなっ――だって!あなた、私のことを好きだって言ってくれたじゃない!」
 なおも食い下がる女に男は再びため息をつき、ゆっくりと振り返った。
 肌にまとわりつく生ぬるい夜風に、男の黒い法衣の裾がはためき、肩で切り揃えられた紫紺の髪がさらりと揺れる。雲の切れ間から差し込む月明かりに照らされたそれは、さながら上質な織物のように美しく、そして作り物のように整った顔立ちに浮かぶのは、感情のない糸目の笑み。
「そのようなことは言った覚えがありませんが、どうやら言葉が足りなかったようですね。あなたのその、自分しか見えていない愚かしいところが気に入ったと申し上げたのです」
 丁寧な口調。しかし、その声音はどこまでも冷たい。
 女は愕然とした。全身を震わし、眉尻を上げ、叫んだ。あらゆる侮蔑の念を込めて男を罵倒した。だが、男の表情はなにひとつ変わらなかった。
 ひとしきり呪いの言葉を吐いたところで、女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を手で覆い、身動きひとつしない男の胸にそっと寄り添った。
「……私はあなたを愛しているのです。この気持ちは、もうどうしようもありません」
「そうですか。では仕方ありませんね」
 必死に懇願する女とは対照的に、男は抑揚のない声でそう呟くと、女を軽く突き飛ばし、右手に携えていた錫杖の先端で彼女の胸を軽く小突いた。
 ふしゅっ
 空を切るような音とともに、女の体はくの字に曲がり、その背側から鮮やかな赤い液体が一筋噴出した。
「――っぁ!」
 声にならない悲鳴が夜の闇に吸い込まれる。何が起きたのかを理解する間もなく、女はその場に崩れ落ちた。
 女の視界はみるみるうちに真紅に染まっていった。そして、目の前に広がるそれが自分の血液であることを理解し、さらに顔から血の気が引いた。否応なく感じさせられる最期≪おわり≫の足音に呼吸が促迫する。だが、取り込まれた空気は肺を膨らませることなく胸の穴から大気へと抜けていくばかり。温≪ぬる≫い血潮に包まれ、女の体は小刻みに震えだした。
「死んでしまえば、その『愛』とやらに苦しまなくて済みますよね」
 男は歩みを進め、地に伏す女の顔を覗き込むようにその場にしゃがみこんだ。己のした行為とは裏腹に、その声は明るい。
「誤解させてしまったお礼として、少しでも長く生きられるように肺に穴をあけてみました。血管を傷つけるつもりはなかったのですが……僕もまだ人体については勉強不足ですねぇ。はっはっは」
 話の内容に不釣り合いな笑みと乾いた笑い声を上げ、男は浅瀬に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせている女を見下ろした。
「呼吸ができないというのはあなた方人間にとってはさぞかし苦しいのでしょうねぇ。ですが、楽になれるまでにはまだ時間があります。今のうちにご自分の人生でも振り返ってみてはいかがですか?」
 女はヒューと喉を鳴らしながら、視線だけを斜め上へ向けた。最後の力を振り絞り、自分を嘲笑しているだろう男を睨みつけてやろうとした。だが、それはできなかった。
煌々と輝く月の光を背に受け、男の顔は影となりその表情は見てとれなかった。ただ、今まで一度も開いたことのなかった双眸が開き、そこからのぞく紫暗の瞳だけが妖しい光を放っていた。
 ――恍惚。こんな憎しみにまみれた死に際でも思わず見惚れてしまうほど、その瞳は美しかった。女はきつく唇を噛んだ。そんな風に思ってしまった自分を呪った。情けなく、涙が溢れた。
 裏切り、悔恨、愛憎―女からありとあらゆる負の感情が噴出した。そしてそれは、次第に迫りくる死の恐怖と生への未練に変わっていった。
 男は眉ひとつ動かすことなく、ただじっと、息も絶え絶えにもがく女を見ていた。
 生きとし生けるものの負の感情を糧とする種族――魔族。呪いや侮蔑もすべてが己の力となる。彼女に対する罪悪感や憐みなどあるはずもない。
 彼にとって人間は、単なる食事でしかない。
 やがて、あたりの虫の音と輪唱していた荒い呼吸音は急速にその勢いを弱めていった。そしてかろうじてもたげていた女の首が、ごとりと大地に落ちた。大きく見開かれた瞳からは雫がこぼれ、冷えるように色が失われた。胸の穴からゆるゆると流れ出ていた液体は乾いた泥土に深く染み入り、あたり一帯に鉄錆のにおいが満ちる。
 男はじっとその様を見ていた。やがて、女の下顎が小刻みに震えだした。それがひとつの命が終わる合図なのだなと冷静に分析した。そして弱く息が吸い込まれ―その息は二度と吐き出されることはなかった。
 女の意識は完全に、混沌へと帰っていった。

 味わうべき感情が途絶えたところで、男は立ち上がり、何事もなかったかのように踵を返し歩き出した。
(やはり、人間で面白みがあるとしたら、これぐらいしかないと思うんですけどねぇ)
 彼はそう胸中で呟き、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。今にも崩れてしまいそうなほど劣化したそれには、この世界の成り立ち、そしてわずかだが『金色の魔王』のことも記されていた。歴史学者や魔道士等が喉から手が出るほど欲する貴重な魔道書―異界黙示録≪クレアバイブル≫の写本。
 男は手に青白い炎を生み出し、その紙切れを一瞬にして灰と化した。闇夜を吹き抜ける血生臭い風に乗り、その灰はきらめく星々のように夜を彩る。
 そして地に伏す憐れな亡骸を一瞥することもなく、男は闇へと溶けるようにその場から姿を消した。


     2

 こつん、こつんと乾いた音が断続的に反響する。決して軽快なリズムではない。ひとつひとつが地に根付くように、その音は重苦しい。顔を前に向ければ、無限に続くかと錯覚してしまうほど長く伸びる廊下。一点の曇りもなく磨かれた大理石は鏡のように自分の闇を映し出す。壁も天井すらもすべて白で統一され、窓から射し込む眩しいほどの月明かりが、視界のすべてを蒼白く染め上げる。
 獣王≪グレータービースト≫ゼラス=メタリオムの本拠、群狼の島に悠然とそびえる白亜の宮殿――獣王宮。その荘厳な廊下を歩きながら、ゼロスは深いため息をついた。歩くたびに自身の持つ錫杖を持ち上げることすら億劫に感じた。
 人間の手に渡った写本を始末した後、ゼロスは報告のために獣王宮へと帰還した。しかし、ゼロスの足取りは鉛のように重く、気分は沼底のように沈んでいた。なぜなら今回の一件はいつもと勝手が違ったのだ。
 きっかけは、獣王からの一言だった。
『人間はとても面白い。おまえもたまには楽しんでこい』
 従来なら写本の処理方法はゼロスの裁量に任されてきた。しかし、今回は人間で楽しんでこい、との条件つき。
 ゼロスは当惑した。写本を手に入れるために、必要ならば人間とも接触を持つ。だが、それはあくまでも手駒としての話。楽しめと言われても、なにを楽しめばいいのかわからない。
 とりあえず写本を祀っていた寺院へと潜り込み、そこで知り合った巫女とわずかながらも関係を持つことにした。だが、その人間とのやり取りの最中にもゼロスが『面白い』と思うような場面はなかった。それどころか、神に仕える身でありながら知り合って幾ばくも無い者にあっさり門外不出の宝を渡してそれを愛として押しつける。愚かだと思うことすら馬鹿馬鹿しい人間の醜態に、面白みを感じるはずもない。強いて言うならば、人間の死への道程における感情の変化、それは『面白い』と言えなくもないが、主の言わんとしていることとは意味合いが違う気がする。
 主は自分と同様の概念を持つことを自分に期待している。直接そう言われたわけではないが、ゼロスはそう捉えていた。それゆえに、何の収穫も得られなかった今回の結果を報告することに躊躇いを感じていた。
 鉛の足に枷がついたように、その歩みはさらに重くなる。ゼロスはその場に立ち止まり窓の外に視線を移した。そよりと吹く風に揺れる、見目よく剪定された庭木、色とりどりに咲き乱れ月夜の下で艶めく花壇の花。整然とした美しい庭園を見、ゼロスは小さくため息をついた。
 ――主の考えがわからない。今回の件もさることながら、本来ならば精神生命体であり負の感情を糧とする魔族には、豪華な宮殿や心を潤す庭園など必要ない。こうして主の元へわざわざ歩いて赴くということも。
 すべては獣王の趣向だった。人間の万事に興味を示す『人間臭い魔族』。自分が創り出されたときからすでに獣王はそういう性格だったため、ゼロスはこれが当たり前なのだと疑問にも思わなかった。創造主の意向に従うのは創られた者の宿命。絶対服従、実力主義の縦社会において主君に異を唱えることなどできるはずもなく、ゼロスも獣王に倣って人間の真似事に付き合っている。永い時を生きる中で最初は違和感だらけだった人間臭い行動も慣れてしまえば大した問題ではない。時と場合によってはいい退屈凌ぎになる。しかし、他の魔族と関わりを持つ中で、ゼロスはようやく、獣王は魔族の中でも特に人間臭い魔族なのだと知った。
 最初からそうだったのか、途中で趣向が変わったのかはわからない。気にならないといえば嘘になる。しかし、あえてこの疑問を口に出すこともどこか憚られる。自分には理解できない思惑があるのかもしれない。
 ゼロスはふっと口の端を上げ、自嘲した。回答を得るつもりのない疑問に頭を悩ますなど、自分も充分『人間臭い』。
 今回の報告は主を失念させてしまうかもしれない。だが、わからないものはわからない。自分が至るには畏れ多い境地なのだと自分を納得させ、ゼロスは胸にわだかまる靄(もや)を奥底へと押し込み、再び足を動かした。
 長い廊下を歩き終え、ようやくゼロスは一枚の扉へとたどり着いた。獅子の彫刻≪レリーフ≫が施された重厚な扉を軽くノックし、
「失礼します」
 わずかに残る躊躇いを払拭できぬまま、ゼロスは扉の先、獣王宮王の間へと足を踏み入れた。
 がらんとした広い空間。丸い天蓋にはステンドグラスがはめ込まれ、そこから広がる光は七色となり部屋を照らす。廊下と同じ素材の床に真紅の絨毯が真っすぐ伸び、数段上がった先には、シンプルながらも細工の美しい見事な玉座。しかし、そこに在るべき姿はない。
 ゼロスはかまわず部屋を突っ切り、玉座の横にある小さな扉へ歩みを進めた。王の間といっても、その玉座に獣王が座ることは滅多にない。獣王の気に入りの部屋は、その先にある。
 その部屋は、それまでの白亜の宮殿とは趣が違う。室内は暗く、淡い青白い光がぽつぽつと天井付近を漂っている。壁、床、天井すべてが黒曜石を含む艶やかな岩肌で一面覆われており、部屋の最奥の壁だけはまるで極光のごとく緑白色や青紫色など絶えず色が移り変わっている。そしてその壁に向き合うように置かれているのは、螺鈿で彩られた大きな背もたれと肘掛が特徴的なシェーズ・ロング。
 その長椅子には、ひとりの女性がゆったりと背を預けていた。光の当たり方によっては銀髪にも見える緩くウェーブのかかった長い金髪、雪のように真白できめ細かな肌、豊満な身体を包むのは銀白色の長ドレス。
「……ゼロスか」
 大きく開いたスリットから伸びた肉付きの良い長い脚が組み直され、中性的な凛とした声が部屋に響き渡る。
「ただいま戻りました、獣王様」
 ゼロスは煙管≪キセル≫の煙を燻らせている主に近づき、深々と一礼をしようとし――そこで初めて、獣王の傍に佇む珍客の存在に気づいた。
「久しぶりだね、ゼロス」
 声変わりする前の少年の幼声に名を呼ばれ、ゼロスは倒しかけていた頭をそのままゆっくりと垂れた。
「お久しぶりです――冥王≪ヘルマスター≫様」
 獣王の横にいたのは、肩下まで伸びた漆黒の髪にあどけない大きな瞳を持った端麗な少年――冥王フィブリゾだった。その見た目とは裏腹に魔王麾下五人の腹心を束ねる長にある彼が直接この獣王宮に顔を出すのは珍しい。ゼロスは怪訝に思いつつも、いつものすました笑みは崩さなかった。
 フィブリゾはゼロスを一瞥し、妖麗な光をたたえた鮮緑色の瞳をすうっと細めた。
「ふぅん……。じゃ、ゼラス。そういうことだから、よろしくね」
 意味ありげな言葉とウィンクを残し、フィブリゾはあっさりと虚空へ姿を消した。同時に、ゼラスの艶やかな唇から紫煙が吐き出される。
「――仕事は片付いたか?」
 淡々とした口調にどこか苛立ちが混じっているのを感じ、ゼロスはそれまでの珍客とのやり取りに深入りするのをやめた。
「……写本は処分しました」
 ゼロスは端的に答えた。それ以上追及されたらどう切り出そうかと一瞬思案したが、すぐにその心配は杞憂に終わった。
 ゼラスは切れ長の目をちらっとゼロスに向けただけで、すぐに極光の壁へと視線を戻した。
「そうか」
 それだけを言い、ゼラスはまた煙管を口の端にくわえた。その反応に、身構えていたゼロスは拍子抜けし、だからといってそれ以上語ることもなく、一礼し退席しようとした。その時、
「――ゼロス」
 再度名を呼ばれゼロスは顔を上げた。ゼラスの妖艶な紫暗の瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。
「……急≪せ≫くことはない。いずれ、おまえにもわかる時が来る」
 自分と同じ瞳に見つめられ、ゼロスはギクリと体を震わせた。
 ゼロスが語らずとも、ゼラスにはわかっていた。彼が今回の一件で何も得るものがなかったということを。そしてそのことを気にしているということも。
 ただ獣王の声音は柔らかく、それがゼロスにとって唯一の救いだった。
「――はい」
 深々と一礼をし、ゼロスはその場から逃げるように部屋を出た。

 誰もいない王の間を進み、がらんとした空間に据えられた空の玉座を見上げ、ゼロスは嘆息した。
 確信したのだ。やはり、主は自分にも同様の概念を求めている。そして、それは写本の始末などとは比べ物にならないぐらい厄介な課題でもある。
「……人間に、そんな価値があるんでしょうかねぇ……」
 問う相手がいないのをいいことに、ゼロスは胸の内を吐き出した。
 魔族とは、創り出された瞬間≪とき≫より不変の意思を持ち完全なる力を有する存在。負の感情を食み、すべてを無に帰し、混沌へと帰ることを望む存在≪もの≫。そのように創られているのだから、そのことだけを考えていればいい。それなのに、人間に食事以外の楽しみを見出す必要性などあるのだろうか。
 己の揺るがぬ不変の価値観を覆すような、そんな影響力が食事(にんげん)にあるとは到底思えない。自分の意思を覆されるということは、自身の存在をも危ぶむことになる。もしそんな人間に出会えたとしても、その存在は邪魔なだけではないのか。
 しかし、そう思う反面、ゼロスは興味もあった。畏敬する主君がなぜこうも人間の趣向にこだわるのか――。
 獣王は語らないが、おそらく人間が関係しているのだろうとゼロスは踏んでいる。でなければ自分に人間と戯れろ、などと言うわけがない。
 今まで畏れ多いと遠ざけてきた好奇心が自分の中で緩徐に膨らんでいくのをゼロスは感じていた。主から同じ境地に立つことは許されている。ならば、その御心に少しでも触れてみたい。理解したい。
 だが、いくら思案に暮れても、今自分の内にある概念だけではそれが叶うはずもない。
 何か、新しい波が必要なのだ。
「面白い人間、ですか……出会ってみたいものですね」
 ゼロスはしかめていた顔を少しだけ緩めた。
 どのみち、いつか混沌へと帰る日まで、漫然と時を過ごすよりかは少しでも退屈を紛らわせたいという考えを、主同様自分も抱いている。ならば、そんな中で奇跡にも近い邂逅という波が現れたなら、それに乗ってみるのもいいだろう。もしそれが自分にとって害にしかならない存在であれば、その時は殺してしまえばいい。所詮すべては、無に帰るまでの暇つぶしなのだから。
 そう自分を納得させると、ゼロスは少しだけ溜飲が下がった。何にせよ、自分のすべきことに変わりはない。退屈でも仕事はまだまだ山積みだ。
 ゼロスはふと天井を仰いだ。そこには天蓋にはめ込まれた獣王気に入りのステンドグラス。七色に落ちる模様が綺麗なのだと、いつもポーカーフェイスを崩さない主が頬を緩ませ語っていたのを思い出した。
 月光を吸い込み、部屋を、そして自身を照らす鮮やかな光に包まれ、ゼロスは再び顔をしかめた。そして黒い法衣を翻し、光から逃れるようにその身を虚空へと移した。
 まだ自分には、この光は眩しすぎる。


     3

 女は怯えていた。小さな村の、朽ちた家畜小屋の最奥で。小さくうずくまり華奢な体を震わせ、抑えきれぬ恐怖から歯がガチガチと鳴っている。速く荒い呼吸は充分な空気を吸い込めず、息を吐きすぎたせいで背中に激痛が走る。手足が、脳が痺れ意識は朦朧としていく。
 女は切望した。この危機的状況を打破してくれる救世主を。
 じっとりと濡れる手に握りしめた一枚の紙切れをさらに強く握り、胸に抱きしめる。これは一族の宝。そして、これを守り後世へ継承することこそ自分の使命。
 だが、その責務はもう全う出来ないかもしれない。これ以上、自分ひとりの力では追手を振り切ることはできない。体術も魔術の心得もない自分が、武器を持った相手や、まして獣人を相手に立ち向かえるはずもない。この絶望的な状況で自分に味方が現れるとしたら、それは神か魔かどちらだろうか。
 充血した翡翠の瞳から、大粒の雫がぽたりと落ち、地面の枯草に染み込む。ふと、女は追手に捕まったときに助け出てくれた二人の人物を思い出した。目深に被ったフードで容貌はよく分からなかったが、冷淡な目つきにもどこか優しさを忍ばせた瞳を持った人。もうひとりは、柔和な笑顔をしているが、その瞳には背筋が凍りつくほどの冷酷なものを秘めた人。
 長年、神官という地位についていたため人を見る目だけはあると女は自負していた。迫り来る追手には剥き出しの殺意があったが、彼らにはそれはなかった。あの時、彼らに助けを乞うのが正しかったのかもしれない。だが、いくら後悔しても過去に戻れるわけではない。今は自分の力のみで現状を打破しなければならない。
(自分には……逃げることしかできない)
 何度思考を繰り返そうとも、行き着く答えはただひとつ。
 女は疲れ果てた体に鞭を打ち、身を隠す場所を移そうと立ち上がった。その時、
 きぃぃっ
 今にも朽ち果てそうな木戸の軋む音が聞こえ、女はその場に硬直した。
「……探しましたよ、お嬢さん。さあ、鬼ごっこはおしまいです」
 武器を携えた獣人を従わせ、黒いローブを纏った細面の悪魔がニタリと笑う。女は目を剥き、わずかな吐息を漏らした。
 女に慈悲の神は現れなかった。そして、悪魔の一言が呟かれると同時に、獣人の三日月刀≪シミター≫が彼女に振り下ろされた。


「この村にいるはずなんですけどねぇ……」
 何度目かわからない台詞を吐き捨て、ゼロスは幾度目かわからないため息をついた。
 沈みかけた陽に村の赤煉瓦造りの屋根が照らされ、何の特徴もないありふれた村が一気に赤に染まる。そんな息をのむような美しい光景に感銘を受けることもなく、ゼロスは足早に村の中を探索した。聞き込みをしようにも通りを歩く人間の姿はない。小さな村は夜も姿を見せぬ内からひっそりとした静寂に包まれていた。
「困りましたねぇ。大した魔力も特徴も持ってないようですし……たかが人間ひとり見つけるのにこれほど手間取るとは……」
 ゼロスは心底うんざりしていた。いくら仕事とはいえ、自分の思い通りに事が運ばないのは面白くない。だが、今回の件は、また後でと引き延ばすには少々内容がよろしくなかった。
「分に過ぎた技術を持つと不幸だというのに……」
 珍しく愚痴を音に乗せると、それは吹きすさぶから風に運ばれていく。
 いつの時代も、人間は愚かだ。より強大な力を求め、その身に余る代償を支払い、結果、国や自身の命を失ってもなおその欲望が尽きることはない。そしてその飽くなき欲望は図らずとも次代に受け継がれていく。より、醜く。
 欲は負の感情と混乱を生み世界に毒を撒き散らす。だからこそ、人間は魔族の駒であり、糧に過ぎない。その人間ひとりを探し出すのにいくつもの村や町を練り歩くという手間を取らされているのだ。愚痴のひとつも吐きたくなるのは仕方のないことだと、ゼロスは自身の行為を肯定した。
 さして広くもない村を歩き終え、ゼロスが次に取るべき行動を思案している時だった。
 ずどぉぉぉぉん
 鈍い爆音が大気を震わせた。音の方角へと視線を向ければ、村の外れに広がる森から黒い噴煙が立ち昇っている。ゼロスは意識をそちらへと集中させた。焦げ臭い噴煙とともに運ばれてくるのは、大人数の殺気と金属同士がぶつかり合う鋭い音。
 ゼロスはへの字に曲げていた口の両端を吊り上げた。そして、ようやくたどり着いた手掛かりを逃すまいと、交錯する殺気の元へと空間を渡った。
 そこはまだ戦いの火蓋が切られてからさほど時間は経っていないようだった。様々な見目をした獣人や覆面を被った人間に囲まれ、その輪の中心で二人の人物が互いの刃を軋ませあっていた。
 ひとりは狼人≪ワーウルフ≫の特色が強く出ている獣人。もうひとりは、白いフードを目深に被った男。だが、フードが翻るたびに見える青い岩肌と針金のような硬質な髪が、彼が合成獣≪キメラ≫であることを物語っている。
 二人の持つロングソードが激しくぶつかり合い火花を散らす。それを遠巻きに見ているのが、一派のリーダーとおぼしき黒いローブに身を包んだ黒髪の青年と、その左右に広がる獣人たち。その中の一匹が、ひとりの女を羽交い絞めにしていた。歳の頃なら二十歳前後、腰まで伸ばした金髪に翡翠の瞳、一目で上質とわかる白い神官服を着ている。まさにその女こそ、ゼロスが探していた人間だった。
 五百年前、愚かな人間の欲望の末滅んだ国―レティディウスの末裔。その子孫が代々語り継いできた『写本』を隠滅することこそ、今回のゼロスの目的だった。
 当初、風の噂や自身の過去の記憶を頼りにゼロスはレティディウスの子孫の居場所を突き止めた。しかし、そのときはすでにそこはもぬけの殻だった。部屋の中は家具がズタズタに切り裂かれ天井から床下まですべて引っ剥がされていた。その見事なまでの荒らされ様に、ゼロスは理解した。他にも写本を狙う存在がいる。
 そしてそれは、今まさに目の前にいるこの一派なのだ。
(さて、どう出ましょうかね……)
 ゼロスは精神世界面≪アストラルサイド≫から事の成り行きを見ていた。この場にいる全員を瞬殺するのは容易い。だが、あの末裔が写本を持っておらず、逃げ回る途中でどこかに隠してきたという可能性もある。そうなるとまた一から探索し直さなければならない。彼女だけは生かしておき写本のことを問いただしてもいいが、捕まってもなお気丈に獣人たちを睨みつけている者が簡単に口を割るとは思えない。
 ゼロスが出方を窺っている時、目の前の激しい攻防に変化が訪れた。獣人の鋭い一閃をキメラの男が剣で受け止め、その動きが止まった。そこに外野の獣人が好機とばかりに一斉に男へと襲いかかる。男は急ぎ呪文を唱えるが間に合わない。その表情に焦りがみえたその瞬間――
「ひとりに対して大人数とは、穏やかではありませんねぇ」
 どごぉっ
 身を躍らせた獣人たちの体が男に襲いかかるすんでのところで、見えない壁に弾き返されるように後方に吹っ飛んだ。立ち並ぶ木々に体を勢いよく打ち付けられ、全員が大地に沈んだ。
『なっ――!?』
 剣を交錯していた男と獣人の驚愕の声が重なった。そして、ゼロスは大木の陰から悠然と一行の前に歩み出た。
「貴様っ!何者だ!?」
 黒髪の男がゼロスを睨みつけ声を張り上げる。
「謎の神官(プリ―スト)ゼロスと申します。ちょっとそこのお嬢さんにご用がありまして」
 場にそぐわぬいつものにこやかな笑顔を浮かべ、ゼロスは捕らえられている女に視線を移した。
 結局、ゼロスは一番勢力のある一派に敵対することで彼女に少なくとも自分は助け手だと思わせることにした。キメラの男が殺されてから姿を現してもよかったのだが、劣勢に加勢するほうが人間にとっていい心象を与えることができるし、彼女の警戒心も緩むと踏んだからだ。だが、飄々とした笑顔が逆に彼女の不信感を募らせていることに残念ながらゼロスは気づかなかった。
「……貴様も写本が狙いか?」
「まあ、それはさておき……女性にはもっと優しくしなくてはいけませんよ?」
心にもないことを言い、人差し指を立てちっちっちと横に振るゼロス。黒髪の男はゼロスを視線から外さぬまましばらく沈黙し、
「フェルティス!そいつも一緒に始末しろ。私は先に本拠地へ戻る」
「わかりやした、クロツ様」
 黒髪の男―クロツはそう命じると、取り巻きとともに女を連れて走り出した。
キメラの男と対峙していた獣人―フェルティスが十数名の獣人とともにゼロスとキメラの男を取り囲む。
「へっ、何者かは知らねぇがひとりが二人になったところで何も変わらねぇ!いけっ、おまえら!」
 フェルティスの号令とともに、二人を取り囲んでいた獣人たちが一斉に牙を剥く。
 キメラの男が敵を迎え撃つべくロングソードを構えた時――
 ずじゃあっ
 獲物を振り上げ身を躍らせた獣人たちの首が一瞬にして千切れ飛び、豊かな緑の森に真紅の雨が降り注ぐ。
『――っ!?』
 何が起こったのかまったく理解できず、フェルティスやキメラの男、そして後ろの様子を振り返ったクロツまでもが大きく目を見開き言葉を失った。ただひとり、漆黒の神官だけが変わらぬ涼しい笑みを浮かべていた。
 その時、皆が硬直した一瞬の隙を狙い、捕らわれていた女は獣人の腕を振り払い、一目散に森の奥へと駆け出した。
 間もなく陽は完全に沈み、深い闇が世界を支配する。月明かりすらとどかぬ鬱蒼とした森の中に逃げ込まれては、捜索は困難を極める。我に返ったクロツは舌打ちをし、取り巻きとともに逃げた女の後を追い森の奥へと姿を消した。
 その様子を見、ゼロスも軽く舌打ちをする。
「すみませんが、どうやらゆっくりもしていられないみたいなので……フェルティスさん、ですか?あなたはどうされますか?」
 不気味な笑みを絶やさない男と周囲の血生臭い惨状を見比べ、フェルティスはギリッと牙を鳴らした。
「くそっ!―ゼルガディス!オメェも後でこのくそ坊主と一緒にじっくり料理してやるよ!」
 そう捨て台詞を吐くと、フェルティスはクロツ達の後を追うように走り去っていった。
「――貴様、何者だ」
 今度は、黙って二人のやり取りを見ていた男――ゼルガディスがクロツと同じ質問をゼロスに投げかける。
「ですから、ゼロスと」
「そうじゃない」
 ゼロスを睨みつける目が鋭さを増した。正体不明の攻撃とその残虐性に、クロツ一派が去った後もゼルガディスは警戒を解かなかった。
「――ただの謎の神官≪プリ―スト≫ですよ」
 ゼロスの飄々とした答えに、ゼルガディスはいっそう眉間の溝を深くする。
「ゼルガディスさんと言いましたか?そういう貴方こそ、連中とはどういうご関係で?」
「味方に見えるか?」
 ぶっきらぼうなゼルガディスの物言いに、ゼロスはひょいっと肩をすくめた。
 性格はヒネくれているが、立場を明言せず判断をこちらに委ねるあたり、まずまず頭はキレる方なのだろう。単に疑い深いだけなのかもしれないが。
「――いいえ。ではあなたも、写本が目的なのですね」
「……内容によるがな」
 警戒は緩めぬまま、必要最低限の言葉だけを交わし、互いに腹を探りあう。
 悠長にしている暇はなかった。急がねば、女やクロツ達を見失ってしまう。しかし、しばらく張り合いのない人間の相手ばかりしてきたゼロスにとって、ここまで慎重に相手の先を取ろうとする彼との問答は少し興をそそられた。そして、ふと考えた。末裔の女を追うのに相手は多勢。追いかけっこはもう飽きた。こちらにも手駒はあるに越したことはない。利用できるものは最大限利用する。それはゼロスの信条だった。
 それに、もしかしたら――
(彼は『面白い』人間なのかもしれない……)
「狙う獲物は同じ……ならばどうでしょう。一時的に手を組んでみませんか?」
 予想もしていなかったゼロスの提案に、ゼルガディスは眉をひそめた。
 どうやったかはわからないが、いとも簡単に敵を一掃した相手が他人と手を組むメリットがあるとは思えない。だが、仲間も地の利もないゼルガディスにとって一時的に協力者が増えるのは願ってもないことだった。たとえ、それがどんなに胡散臭い相手だとしても。
 ゼルガディスは小さく息を吐き、ようやく剣を鞘に納めた。
「――よかろう。ただし、連中から彼女を―リーエンを取り戻すまでだ」
「彼女とお知り合いなんですか?」
 さすがのゼロスも末裔の名前までは知らなかった。どちらにせよ知る必要もないことだが。
「数日前に彼女に助けを求められた。リーエンは俺に身の証と追われる理由を話してくれた。だが、俺が写本に興味を示すと消えるように逃げていったのさ」
 そう語り、ゼルガディスは肩をすくめた。
 ゼロスは彼の話を聞き、確信した。彼女は誰にも写本を渡す気はない。自身の命よりもそれを守り抜くことに重きを置いている。やはり、写本の存在を確認するまでは下手に相手を刺激しないほうがいい。
 ゼロスはなるほどと相槌を打ち、
「ではそういうことで、そろそろ僕たちも追いかけましょうか」
 ゼロスがそう告げると、ゼルガディスは黙ってこくりと頷いた。
 累々と横たわる死体と血の海を後に残し、二人は暗い森の奥へと走り出した。


     4

 獲物を探し追いながら、ゼロスはゼルガディスからクロツ達のことを訊いていた。といっても、ゼルガディスも彼らのことを詳しく知っているわけではないらしい。わかっているのは、連中はクロツを教祖とした邪教集団で、写本を利用し強大な力を手に入れようとしている、という漠然としたものだった。いかにも人間らしい短絡的な考え方だ。だが、彼らが魔王シャブラニグドゥを崇拝していると聞かされた時には、ゼロスは思わず噴き出しそうになってしまった。
 崇め奉るだけの祈りに応えるのは、所詮人間の偽善だけだ。そんなこともわからず安易に分に過ぎた力を求める人間はやはり愚かだとゼロスは再認識する。
 二人は一夜ひたすら広く深い森を注意深く駆け抜けた。夜が明けてからもリーエンとクロツ達の足跡をたどり、さらにいくつもの村や町を探し回った。だが、ゼルガディスはその間一度たりとも体を休めようとは言い出さなかった。普通の人間ならばとっくに力尽きているだろう。キメラという体質もあるのだろうが、彼の気力と体力を支えているのは強靭な精神力だった。その一心不乱に探し回るゼルガディスの姿に、ゼロスは少し興味がわいた。
「あなたはなぜそこまで写本を求めるのですか?」
 その問いかけにゼルガディスはしばらく沈黙し、ぼそっと呟いた。
「……もとの人間の姿に戻るためだ」
 ゼルガディスはそれ以上何も言わなかった。だが、ゼロスはその言葉だけであらかた理解した。
 身に過ぎた力を求め高い代償を支払った成れの果て。彼から流れ来るのは後悔と自責の念。それに苛まれながらも、一縷の望みを持ち奇跡にも近い可能性を追い求めているのだ。
 滑稽だ。だが、自身の愚かさを理解しているところはまだ可愛げがある。ゼロスはじっと、フードに隠れるゼルガディスの顔を見つめた。そして思った。
 彼ならば、たとえさざ波でも自分の中に新しい波を引き入れてくれるだろうか。
「……あの写本には何が書かれているのか、ご存じですか?」
「知っているのか!?」
 驚愕の声をあげるゼルガディス。ゼロスは戯れに少し意地悪をしてみることにした。
「魔獣ザナッファーの伝説はご存じで?」
「あぁ……あくまで言い伝えられている程度だがな」
「かつて魔道都市と呼ばれたサイラーグを滅ぼした伝説の魔獣。それはなぜ生み出されたのか。答えは簡単です。自分たちが代々継承し続けているものが本物なのかを確かめた、その結果です」
 ゼルガディスの表情が苦渋に変わった。その簡単な説明だけですべてを理解したようだった。
 これだけ一心不乱に追い続けたものが自分の求めるものではないことを知らされたら、彼はどうするのか。
「……なぜそんなことを知っている」
「ま、それは秘密ということで。……それでもまだ追いかけますか?」
 疑念に揺れるゼルガディスの藍色の瞳が、ゼロスの糸目をじっと見据えた。
「当然だ。自分の目で確かめるまではな」
 きっぱりとした口調で、ゼルガディスは力強く答えた。
 確固たる意志。それは強ければ強いほど、いずれ味わう絶望は深くなる。
 ゼロスは彼の答えに、大いに満足した。

 森でリーエンの姿を見失ってから五日。風の噂や街道をすれ違う人からの聞き込みなどで、二人は確実に彼女の元へと近づいていた。だが、それはクロツ達も同じだった。
 金髪の神官服の娘が駆け込んだという情報を得て向かう村への街道上。二人は同時に足を止めた。行く手を遮るように二人を取り囲むのは数多の殺気。
「へっへっへ、久しぶりだなぁお二人さんよぉ」
 三流悪役の決まり文句を吐き捨てながら、街道脇の木立の茂みからフェルティスが姿を現した。すでに抜き放ったロングソードの腹で肩を叩きながら、余裕の表情で二人の前に立ちはだかる。ゼルガディスはすぐさま剣を抜き、自身も殺気をみなぎらせた。
 ゼロスは動かなかった。放たれる殺気の数は、およそ五十。だがどれだけ駒をそろえようとも、群がる蟻の大群を蹴散らすことなど造作もない。それよりも、このタイミングでこれだけの勢力をつぎ込んできたことに、ゼロスは笑みを深くした。
「どうやら、ようやく追いついたようですね」
「あぁ、悠長にはしていられないな」
 同じ結論に至った二人は背中合わせとなり腰を落とした。だが、お互い完全に背中を預けているわけではない。拳ひとつ分の隔たりが、現状『味方』であるゼロスにも決して気を許していないゼルガディスの慎重さを物語っている。それに気づき、ゼロスは思わず口角を吊り上げた。
「半分ずつでいかがです?」
「よかろう。フェルティスは俺がもらう」
 お互いの取り分が決まり、その場に闘気と殺気が膨れ上がる。
「はっ、言ってくれるねぇ。オメェら!やっちまえ!」
 フェルティスの号令に、隠れていた獣人たちが一斉に姿を現し二人に襲いかかった。
 ゼルガディスは呪文詠唱を開始し、深く身を沈めると、勢いよく地を蹴り前方の獣人の群れへと突っ込んだ。
 対して、ゼロスはまだその場から動かなかった。ただ一度、右手に持った錫杖をくるりと翻し、とんっと大地に打ちつけた。
 獣人たちは一瞬怪訝な顔をしたが、構わずゼロス目がけて獲物を振り下ろした。次の瞬間、一同はその目を大きく見開いた。獲物を握りしめる手―肘から下の部分が鋭利な刃物で切られたように綺麗になくなっていたのだ。信じがたい光景は、コンマ数秒遅れで襲い来る激痛により現実のものとなる。天を裂く絶叫と、切断面からほとばしる赤い液体があたり一帯を染め上げる。
「物騒なものを振り回してはいけませんよ」
 淡々とした口調で呟き、ゼロスはようやく一歩を踏み出した。体を折り曲げ痛みに悶える獣人たちの間を抜け、道端にあるひと際大きな岩の上に腰掛けた。滔々と流れる血液は、もはやゼロスが手を下す必要もなく徐々に生ある者の命を奪う。痛みや死の恐怖に震えながらも最後の気力を振り絞り、一矢報いようと半狂乱で立ち向かう者もいるが、ゼロスの一瞥でその身は四散した。
(散々邪魔をしてくれたんですから、これぐらいはお代としていただかないと)
 ゼロスは足をぷらぷらさせ、鼻歌を歌った。恐怖、怒り、絶望―粗野な味ではあるが、一時の空腹を満たすには充分だ。負の感情を味わいながら、ゼロスは街道の前方へと視線を移した。
 ゼルガディスは呪文と剣を巧みに使い、少しずつではあるが確実に敵の数を減らしていた。剣技も魔力容量(キャパシティ)も、一撃で相手の息の根を止める潔さもまずまずだ。それなのに、彼はその力を捨ててまで人間の姿に戻ることを渇望している。
(そんなに見た目が重要なんですかねぇ……)
 望まぬ姿になっても、それに代わる力が手に入ったならそれでいいではないか。力こそすべての魔族であるゼロスには、彼の心理がまったく理解できなかった。
(ま、理解しようとも思いませんが)
 ぴぃぃぃぃぃぃぃ
 ゼルガディスが雑魚獣人の最後のひとりを絶命させ、フェルティスと剣を交えた時だった。遠くから聞こえた笛の音に、フェルティスの耳がぴくんと動く。それと同時に大きく後ろへ跳び退き、
「悪いが、おまえらとの遊びはここまでだ。じゃあな!」
 ニタリと口の端を歪ませると、フェルティスはあっさりと退却した。
「待て!」
 そのあとを追いかけるゼルガディス。仕方なく、ゼロスもそのあとに続いた。

 山の稜線にかかる陽が、世界を燃えるような赤に染める。
 逃げるフェルティスを追いかけ、二人はやがて小さな村へとたどり着いた。
 よそ者を好ましく思わないのか、二人が村の入り口に姿を現すと村人たちはそそくさと家屋の中に入りじっと息を潜ませた。フェルティスの姿はない。
 ゼロスは意識を集中させた。感じ取ったのは、大気の流れに乗りどこからか漏れ流れてくる死の気配。死に際に放つ未練という名の残り香をたどるように、ゼロスは歩き出した。
 足を止めたのは、朽ちて今にも崩落しそうな家畜小屋。その古い木戸は開け放たれており、中から漂ってくるのは鼻が曲がりそうなほどの鉄錆の臭いと濃密な死の気配。迷うことなく小屋へと入る。
 いびつに歪んだ木壁の隙間から射し込む夕日が、仄暗い小屋の中をぼんやりと照らす。床に散らばった干し草は踏むたびに乾いた音を立て崩れていく。物置に使っていたのか柵の中に家畜の姿はない。錆びついた農耕道具が散乱する中を進み――二人は部屋の奥で、うつ伏せに倒れるひとつの影をみつけた。ぐしゃぐしゃに絡まった長い金髪、泥土で汚れた白い神官服。
 ゼロスはその体を足先で小突き仰向きに転がした。その瞬間、背後から嫌悪の念が溢れ出た。ゼロスは気にしなかった。
 二人はその亡骸を無言で見つめていた。薄暗い室内でもわかる完全に血の気が失われた青白い肌、絶望が深く刻まれ淀んだ翡翠の瞳。色のない唇から吐き出された幾筋もの朱。言うまでもなく、リーエンだった。肩から腹にかけてバッサリと切り裂かれ、体の下敷きになった干し草までべったりと赤い液体が染みこんでいる。命が絶たれてからそれほど時間は経っていないのか、流れ出る血はまだ固まっていない。
 ゼロスは嘆息した。命を奪われたということは、自分が求める物も奪われたということだ。そして、背後にいるゼルガディスを肩越しに見た。無残に横たわる死体から目をそらすことなく、ゼルガディスはただじっとその場に佇んでいた。
 その後は会話らしい言葉を交わすことなく、二人はその場を後にした。村の外れを歩きゼロスは自分の二歩前を行くゼルガディスの背を見つめた。藍色が顔を出し始めた空に、依然と燃えるように輝く夕日が彼の服を、青銀の髪すらも赤く染める。
 何事もなかったかのように歩いてはいるが、ゼロスは気づいていた。
 リーエンがゼルガディスに助けを求めた際に自分が彼女を保護していれば、こんな結果にはならなかったのではないか。彼の背中にはその自責の念がくっきりと浮かび上がっていた。だが、それでも彼は肩を落とすこともなく、顔は真っ直ぐと遥か先を見上げている。後悔にとらわれることがいかに愚かなことであるか、彼自身一番よく理解しているのだ。
 ゼロスは思った。その意思の強さは、嫌いではない。
「さて、協定は彼女を取り戻すまででしたが、これからどうなさいますか?」
「……ここまで来て諦めるわけにはいかん。追うさ」
 ゼルガディスは振り返り、鋭い眼光をゼロスに向けた。
「ただし、俺ひとりでな」
 疲れを感じさせない、静かだがきっぱりとした口調でゼルガディスはそう告げた。彼は本能で感じていた。目の前にいる情のかけらもない不気味な男と、これ以上行動を共にするのは危険だと。
「わかりました。ではここからは競争相手ということで」
 特に引き止める理由もなく、ゼロスはあっさりと了承した。
 今まで会ってきた人間の中で少しは興味が持てた。だが、それだけだった。あえて自分から深く関わる気にはならなかった。
 ゼロスも不思議とどこか本質的な部分で感じていた。彼は違うと。
 別れの挨拶をすることもなく、ゼルガディスはその場にゼロスを残しひとり駆けていった。連れだった男の背中が見えなくなった頃、
「……凝りませんねぇ、あなた方も」
 ゼロスはそうぼやいた。見計らったかのようにわらわらと姿を現しゼロスを取り囲んだのは、家屋の中で息を潜めていた村の住人達だった。各々手には武器や鍬などを携えている。
「クロツ様の邪魔をするやつは許さねぇ」
 村人の一人がそう吐き捨てるのを皮切りに、他の村人たちも口々に同じ台詞を吐いた。ゼロスは表情を変えることもなく、ひょいと肩をすくめた。
「なるほど。この村の方たちは皆、彼らの信者というわけですか」
 レティディウスの末裔も、よりによって逃げ込んだ先が邪教集団信者の隠れ蓑だったとは夢にも思わなかっただろう。
 ゼロスは古小屋で転がっている死体を思い出し、ほんの少し胸がざわりとした。
 彼女の悲運に同情したからではない。人間ごときにまんまと目的のものを横取りされたからだ。
 刹那、大気が震えた。風が悲鳴を上げ、木々や家屋の屋根で羽を休めていた鳥たちが逃げ去るように一斉に空へと飛び立つ。村人たちはその場に凍りついた。手足が震え息が詰まり、顔からは色がなくなり体中から脂汗が噴き出す。
 瘴気など無縁の世界で生きてきた村人たちにとって、目の前で笑いながら黒々とした闇を噴き出す存在は、自分たちの崇める魔王そのものではないかと錯覚してしまうほど、ゼロスの瘴気は濃密で禍々しく歪んでいた。
「――それほどまでに魔王様を崇めていらっしゃるのなら、せめてその糧にでもおなりなさい」
 ゼロスは手に持った錫杖を村人たちへゆっくりと突き出した。先端の紅い宝珠がこうっと光り――
 次の瞬間、村に閃光の矢が降り注いだ。家屋を、大地をも沸騰させるほどの熱量が村全体を包み、すべてを溶かす。灼熱の爆風が吹き荒れ、悲鳴を上げながら逃げ惑う村人たちは次々と炎にのまれていく。
 ゼロスは荒れ狂う炎の中、村の中心へと戻った。そして先ほどの家畜小屋の前で立ち止まり、小屋に向かって腕を軽く薙ぐ。
 ごおおおおおおん
 激しい火柱が大地の鳴動とともに立ち上り、中に横たわる亡骸とともに瞬時に小屋を灰塵と化した。それを見届け、ゼロスは反対側の家屋の屋根へと空間を渡り、腰を下ろした。空を支配する藍色を押し戻すかのように暴れ狂う紅蓮の炎が、世界を血のごとき赤に塗り上げる。
 ゼロスはうっすらと目を開け、地獄絵図と化した村を眺めた。ふと、胸にちくりとした痛みを感じた。無意識に、胸元を握りしめていた。
 まるで風穴が開いているかのような空虚感がそこにはあった。有り余るほどの負の感情を食んでいるのに、自分の内側がまったく満たされていない。
 原因はわかっていた。自分が真に望むものを手に入れることができなかったからだ。
 ――彼ではない。それは自分でも納得している。しかし、主の境地へと近づけるヒントになるのではないかと期待してしまった反面、その落胆も大きかったようだ。
『急くことはない。いずれ、おまえにもわかる時が来る』
 以前言われた主の言葉を思い出す。そして気づいた。
 自分は、焦っている。
(……本当に、わかる日が来るのでしょうか……)
 村をなめるように這いまわる炎に包まれながら、ゼロスはぽつりと呟いた。
 熱など感じるはずもない体が、なぜか灼けるように痛かった。


     5

「とりあえず、キミにはとある人間を護ってもらう」
「はあ……」
 その声は幼声に似合わぬ威圧感、そしてどこか愉快さを含んでいた。それに呼応するかのように、円形の部屋をぐるりと取り囲む水晶の壁と部屋の中心にそびえたつ巨大な水晶の柱が、ぼぅっと淡い光を放つ。
 鈍く明滅する水晶の壁の中にはぼんやりと滲むおぼろな影。ひとつではない。それはさながら夜空を架ける星々のように、ひとつを認識すればさらなる存在を認識し、影は次から次へとその存在を顕わにする。しかし、目を凝らせばそれはロマンチックな星ではなく不気味な人型であることに気づく。創造主の捻じ曲がった性格がよく反映されている部屋だとゼロスは思った。特に興味を惹かれるものではない。ただ何とはなしにそれを見ていたゼロスは少し間をおいて気のない相槌を打ち、声の主へ視線を戻した。
 彼は肩よりも伸びた純黒の髪をかき上げ、鮮緑色の瞳を愉しそうに歪めていた。端麗な顔立ちに浮かぶその不敵かつ尊大な笑みは、幼く愛くるしい容貌とはそぐわぬ妖艶な雰囲気を醸し出し、それが見た目通りの存在ではないことを如実に物語っている。
 冥王フィブリゾは水晶柱の台座に腰を下ろし、退屈を全身であらわすように足をぶらつかせた。
「人間を『護る』……ですか?」
 訝し気な視線を送り、ゼロスは相手の言葉の一部をわざと強調し復唱した。しかし、ゼロスのささやかな嫌味は目の前でしたり顔をする少年に届くことはない。
「そう。――リナ=インバース。キミも知ってるだろ?」
 無邪気な口調で紡がれたその名前に、滅多に動くことのないゼロスの片眉が跳ね上がった。
 リナ=インバース。その名はそれなりの魔族ならば知らぬものはいない。なにしろ、千年の時を経てようやく目覚めた魔王の欠片を滅ぼした人間だからだ。しかも、人の身でありながら『金色の魔王』の力を行使したという信じがたいおまけ付き。その事実は、魔族、そして静観している神族にもその名を知らしめる結果となった。だが、ゼロスが反応したのはその理由からだけではない。
「……はい。つい先日まで、別件でご一緒させてもらいましたから」
 再びその名を聞くとは思いもよらなかった。ゼロスの脳裏に、朱い光が一瞬よぎる。
「ふうん、偶然だね。とにかく、その人間をカタートにある異世界黙示録≪クレアバイブル≫のところまで連れてってほしいんだ」
 ゼロスの発言にさほど関心を示すことなく、肩先で遊ぶ黒髪を小さな指に絡ませ、フィブリゾは用件のみを淡々と綴っていく。
 偶然――その言葉に何かひっかかるものを感じたが、ここでそれを追求したところで意味はない。ゼロスは気のせいだとその考えを霧散させる。
「異世界黙示録≪クレアバイブル≫ですか?それはなぜでしょうか?」
「今キミが知る必要はない。言われた通りにしてくれればいいのさ」
 当然の疑問は、フィブリゾの冷笑によって一蹴された。ゼロスは舌打ちしそうになるも、にこやかな糸目を崩すことなく沈黙に徹した。意に沿わない相手からの含みを持たせた命令に、胸の奥がざらざらとささくれ立つ。しかし、それと同時に苦々しい顔をした主の姿が頭をかすめた。以前貸し出した身内が己の私怨に溺れ反逆するということがあり、その非を咎められ板挟みとなった上司のことを考えると、ここで自分が苦渋をあらわにすることなどできるはずもない。
 忌々しい荒波を抑えるように、ゼロスは息をひとつ吐き出した。そして、保護対象となった人間の名前を胸の内で反芻した。
 静かな水面≪みなも≫に小石を投げ入れるがごとく、その名前はゼロスの中で波紋となり、先日出会った珍奇な少女との記憶が呼び起こされた。

     6

 そこはまさに戦場だった。
 少女の細い腕はまるで奏者を操る指揮者のように、あるいは数本の腕を生やし獲物を蹂躙する慈悲なき悪鬼のように。残像が追いつかぬほどその動きは早く、銀条が閃くたびに目の前の獲物が次々とその姿を消していく。すぐさま補完される増援も、彼女の目にもとまらぬ熟達された技と、本能に忠実な欲求の前にただひれ伏すばかり。
 ゼロスは塔のように積み上がっていく空の食器と目の前に座る少女とをぽかんと口を開けたまま見ていた。無意識に頬がひきつっているのがわかる。それなりに長く生きてはいるが、こんな凄惨な食事風景を見るのは初めてだった。
 とある村の、小さな食堂。昼の混雑も終わり、客は自分たち以外にはいない。ようやく一息つけると店主やウェイトレスが和やかに談笑している時だった。テーブルをはさみゼロスの真向かいに腰を下ろした少女が、メニューを開きウェイトレスを呼び止めた。そして一種の呪術のように紡がれるそのオーダーに、ウェイトレスは「ひっ」と声を上げ、厨房にいる店主も「げっ」と呻いた。注文を終え「早くね」と念押しする少女の目にはひとかけらの笑みもなく。ほどなくして料理が運ばれて来るや否や、少女はその手に武器を持ち、ただひたすらに料理を平らげ始めたのだ。
 やむことのない慌ただしい厨房の雑音と少女が奏でるマナーもへったくれもない咀嚼音を聞きながら、ゼロスはぽりぽりと頬を掻いた。
(それにしても……いつまで食べるんでしょうね。この人は……)
 明らかに自分の体積を超える量を食しているというのに、少女の手は休まる気配がない。しかも、出会って間もない相手とはいえ、「あなたもどうですか?」と料理を分けようとする社交辞令すらない。別に気を遣って欲しいわけではないが、今まで出会ってきた人間とは少なくともそういうやり取りがあったため、こうも他人に遠慮のない人間をみるのは新鮮だった。
(……よっぽど図太い神経してるんですね)
 ゼロスはため息をひとつつき、何気なく手首をさすった。そこにはいつも身に着けていた硬い感触はない。それはすでに自分のものではなく、勢いよくフォークを鳥の丸焼きに突っ立てた少女の手首で輝いていた。その取り返しのつかない現実に、ゼロスはもうひとつ深いため息をこぼした。


 ひとつの村を灰塵に化したあと、ゼロスは写本を手に入れたクロツ一派の後を追った。正直、写本の始末にここまで手間をとらされるとは思ってもいなかった。いい加減、このくだらない追いかけっこにも飽きたし、別の意味でやる気も出ない。だが、一時は手を組んだゼルガディスも血眼で彼らを探している。また人間に獲物を横取りされるのは自分の矜持が許さない。先を越されるわけにはいかない。
 ゼロスは思考を切り替え、自分を追い立てるように風を切った。いつまでも、胸の奥ではびこる空虚感に苛まれている暇などないのだ。
 獣人≪フェルティス≫の気配を探り、たどり着いたのはマインの村へと続く街道上。そこで、この少女と出会った。
 人間にしては、印象深い瞳をしている。それが彼女に対する第一印象だった。
 少女はフェルティスを含むクロツ一派と対峙していた。最初見かけたのは後ろ姿だったが、少女だと思ったのは単に髪が長く小柄だったからだ。敵側をみればさらに小柄な少女がひとり、気絶しているのか獣人に捕まっていた。仲間を人質にとられたのだろう。その小さな背中からは焦燥感が滲み出ていた。しかし、他人の緊迫感などゼロスには知ったことではない。かまわず、ゼロスはフェルティスに声をかけた。その瞬間、弾かれたように少女は後ろを振り返った。
 人間の年齢相応はよくわからない。だが、それでも後ろ姿から想像していたよりも、少女はずっと幼い顔立ちをしていた。
 そして互いの視線が交錯したほんの一瞬――その瞳はゼロスの深いところへと飛び込んできた。
 仲間を人質に取られ劣勢であるにも関わらず、決して折れることなき闘志を宿した、揺るぎない輝きを秘めた朱色の瞳――。
 不思議な感覚だった。まばたきすら追いつかないその刹那に、どうしてそんなことまで思ってしまったのか。ゼロスにはわからなかった。
 少女は胡散臭いものを見るようにゼロスを一瞥すると、何かを感じ取ったのかその身を道の端へと移動させた。この少女も、勘がいい部類なのだろうとゼロスは思った。ならば、見通しのいいこの場所で、おおっぴらに魔力≪ちから≫を振るうのはいただけない。
(……たまには、『らしく』いきましょうかね)
 ゼロスは標的を定め、呪文を詠唱した。だが、この滅多に起こさない気まぐれを起こしたのがいけなかった。
 降魔戦争での功績を認められ魔王より拝受したが使う機会のなかった完全無欠の魔力増幅器、魔血玉≪デモンブラッド≫――正体偽装のためにと増幅呪文を唱えた時、少女の目が獲物を狙う猛禽類のごとくひと際強く輝いたのをゼロスは見逃してはいなかった。
(あの時、声を掛けずにさっさと立ち去っていればよかったんですよ……)
 ゼロスは胸中で嘆息した。
 いや、しかし、これは決して自分のせいではない。そもそも敵の本拠地≪アジト≫を尋ねた自分に『さてはレイ=マグナスでしょ!』と彼女が見当違いも甚だしいことを言ってこなければ、その流れで魔血玉を強奪―もとい、適正価格とやらで買いたたかれることはなかったのだ。
(からかうつもりで金額を提示した自分もアレですけどね……)
 ゼロスは手首をさすっていた手をテーブルに置かれたホットミルクへと伸ばした。そしてカップを傾けながら、鳥の丸焼きに大口を開けかじりついている少女をまじまじと観察した。
 栗色の長い髪に朱色の瞳。華奢な体躯にはやや重たげな、宝石の護符≪ジュエルズ・アミュレット≫が埋め込まれたショルダーガードに黒いマント。あらためて見ても、とりわけ目立つ特徴はない。何の変哲もない小柄な女魔道士といったところだ。付け加えるなら大食い。だが、彼女が見た目通りの人間ではないことはすでに立証済みである。
 ゼロスの中で好奇心と物欲にまみれきらきらと目を輝かせる少女の姿が蘇った。魔血玉交渉時の、あの時の有無を言わせぬ修羅のような剣幕と、初対面の相手への遠慮と配慮の欠片もない強引さは、ゼロスが出会ってきたどの人間よりも群を抜いていた。
(これは……獣王様に叱られちゃいますね)
 だが、ゼロスの表情に落胆はなかった。過ぎてしまったことは仕方がない。それに、失ったものよりも物珍しい人間に遭遇したという新鮮さのほうがゼロスの中で勝っていたのだ。
 ゼロスはふと、自分の主ならばこの人間を見てどう思うかと考えた。人間に対して他のどの魔族よりも強い興味を抱いている主にこの話をみやげにしたら、退屈な日々の憂いを紛らわせる足しになるかもしれない。
 ゼロスは自身の失態を肯定しひとり大きく頷くと、カップに並々と注がれたホットミルクをちびりと飲んだ。

 少女の食事はまだまだ終わる気配はない。うんざりした顔でウェイトレスが運んできた山盛りトマトパスタは、大蛇に飲み込まれるがごとく一瞬で少女の胃袋に吸い込まれていった。口の周りが赤く染まっているのも気にせず、水を一口飲むと次の皿へフォークを走らせる。
 ゼロスの目からみても人間ひとりにしては異常ともいえる量を平らげているのに、少女の顔は最初からずっと幸せに満ち足りた表情のままだった。とても仲間を人質にとられている人間とは思えない。普通ならもっと人質の安否を気遣い焦燥感にかられ食事も喉を通らず悲観するのではないのか。それに加え、彼女いわく、今は魔族≪マゼンダ≫に術を封じられているとのこと。八方塞がりだというのに、よほど肝が据わっているのか、それとも単に楽天的なだけなのか。
 ゼロスは胸中で苦笑した。魔族である自分が人間の概念を語るのも滑稽な話だが、それでも彼女は今まで出会ってきた人間と比べて『普通』ではない。ある一定の型にはまらないものを異端とする傾向が強い人間において、彼女はあまりにも『普通』からほど遠いところにいる。出会ってまだ半日も経っていないというのに、そのことだけはゼロスにも充分すぎるほど理解できた。そしてそれは、なかなかに興味深かった。
 カランッ
 店に入ってどれくらい経った頃だろうか。実際、それほど長い時間ではなかったが、待つだけというのは魔族にしても時の流れを緩やかにする。ようやく少女の手から武器が手放された。厨房でぐったりとしている店主やウェイトレスが、やつれ顔で戦いが終わったことに安堵のため息を漏らす。
「はぁぁぁぁぁ食べた食べた!小さい村にしてはなかなかいい味してたわー」
 ナプキンで口元を雑に拭い胸よりも膨らんだ腹を撫で、少女は満足げに声を上げた。
「はあ……それはよかったですね」
 ゼロスの適当な相槌に構うことなく、少女は食後の香茶をすすりつつ、「さーて、これからどうしよっかなー」とひとり呟いた。そしてようやく、幸福感に満ち満ちていたその顔に不安と焦燥が織り混ざる。どうやら仲間のことを忘れていたのではなく、単に腹が減っていただけらしい。腹が減っては戦はできぬ、というやつだろうか。仲間の安否より自身の生理的欲求に忠実な彼女を見、ゼロスはふと、あることを思い出した。
「――そういえば、まだお名前を聞いていませんでしたね」
 どうせこの一件が片付けば二度と会うこともない。名前など尋ねる必要も覚える義理もない。だが、ゼロスは知りたいと思った。そして、自身の過去の記憶を掘り下げる。
 自分から相手の名を訊いたのは、これが初めてだった。
「んあ?言ってなかったっけ?」
 少女は大きな目を音が鳴りそうなほど瞬かせ、まだ温かい香茶をくいっと飲み干した。
「リナよ。リナ=インバース」


〜試し読み fin〜
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